深呼吸と腹式呼吸:自律神経、セロトニン、そしてうつへの影響

私たちは、生きていく上で欠かせない呼吸を、ほとんど意識することなく行っています。しかし、呼吸は単なる酸素と二酸化炭素のガス交換以上の意味を持ち、私たちの心身の状態に深く関わっています。特に、意識的に行う深呼吸や腹式呼吸は、自律神経のバランスを整え、心の安定や健康維持に役立つことが知られています。本稿では、深呼吸と腹式呼吸の違いを明確にし、それぞれが自律神経、セロトニン分泌、そしてうつ症状の改善にどのような影響を与えるのかを詳しく解説します。

呼吸の基本と自律神経、セロトニンの関係

まず、呼吸の基本的な仕組みと、それが自律神経やセロトニンといった心身の機能にどのように関連しているのかを理解しておきましょう。

呼吸のメカニズム:

通常の呼吸は、主に胸郭の筋肉(肋間筋など)と横隔膜の収縮・弛緩によって行われます。息を吸うときには、これらの筋肉が収縮し、胸郭が広がり、肺の内圧が低下することで外気が肺に流れ込みます。息を吐くときには、これらの筋肉が弛緩し、胸郭が狭まり、肺の内圧が上昇することで肺から空気が排出されます。

自律神経系:

自律神経系は、私たちの意思とは無関係に、心臓、血管、内臓などの機能を自動的に調節する神経系です。自律神経系は、活動や興奮を司る交感神経と、休息やリラックスを司る副交感神経の二つのシステムから成り立っており、これらがバランスを取りながら私たちの生命活動を維持しています。ストレスを感じると交感神経が優位になり、心拍数や血圧が上昇し、筋肉が緊張します。一方、リラックスした状態では副交感神経が優位になり、心拍数や血圧が低下し、消化活動が活発になります。

セロトニン:

セロトニンは、脳内で働く神経伝達物質の一つで、感情の安定、幸福感、意欲、睡眠など、様々な精神機能に深く関わっています。「幸せホルモン」とも呼ばれ、不足すると抑うつ気分や不安、不眠などの症状が現れることがあります。セロトニンの大部分は脳ではなく、消化管(特に腸)で生成されることが知られています。脳内のセロトニンは、トリプトファンという必須アミノ酸から合成されます。

呼吸と自律神経、セロトニンの繋がり:

呼吸は、自律神経系と密接な関係を持っています。特に、呼吸のリズムや深さは、交感神経と副交感神経のバランスに影響を与えることが知られています。ゆっくりとした深い呼吸は副交感神経を活性化し、心身をリラックスさせる効果があります。また、呼吸は消化管の動きにも影響を与えるため、セロトニンの分泌にも間接的に関わっていると考えられています。

深呼吸とは

深呼吸は、意識的に普段よりも深く息を吸い込む呼吸法の総称です。特に呼吸方法が限定されているわけではなく、胸部を大きく膨らませる胸式呼吸の要素が強い場合や、腹部も意識する呼吸など、様々な方法で行われます。一般的には、リフレッシュや気分転換、運動後の呼吸を整える目的などで行われることが多いです。

深呼吸のメカニズム:

深呼吸を行う際には、通常の呼吸よりも多くの呼吸筋が動員されます。胸式呼吸を主体とする深呼吸では、主に肋間筋や肩周りの筋肉が大きく動き、胸郭を広げることで多くの空気を肺に取り込もうとします。

深呼吸が自律神経に与える影響:

深呼吸は、その方法によって自律神経に与える影響が異なります。

ゆっくりとした深い深呼吸: ゆっくりと時間をかけて深く息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出す深呼吸は、副交感神経を優位にする効果が期待できます。深い呼吸によって心拍数が落ち着き、リラックス効果が得られます。

速く浅い深呼吸: 一方、速く浅い深呼吸は、交感神経を刺激する可能性があり、心身を興奮させる方向に働くことがあります。

このように、深呼吸は意識的に行う呼吸法ですが、その方法や意識の向け方によって、自律神経に与える影響は異なるため、目的に合わせた呼吸法を選択することが重要です。

深呼吸とセロトニン分泌:

深呼吸がセロトニン分泌に直接的に与える影響については、腹式呼吸ほど明確なメカニズムは示されていません。しかし、深呼吸によるリラックス効果やストレス軽減は、セロトニンの正常な分泌を間接的にサポートする可能性があります。ストレスはセロトニンの働きを阻害することが知られているため、深呼吸によるストレス軽減は、セロトニンレベルの維持に貢献すると考えられます。

深呼吸とうつ改善:

深呼吸は、手軽に行えるリラックス法として、うつ症状の緩和に役立つ可能性があります。深い呼吸によるリフレッシュ効果や気分転換は、一時的に気分を高める効果が期待できます。また、ゆっくりとした深呼吸によるリラックス効果は、不安や緊張を和らげ、精神的な安定をもたらすことがあります。しかし、深呼吸だけでうつ病を根本的に改善することは難しく、専門的な治療と併用することが重要です。

腹式呼吸( diaphragmatic breathing )とは

腹式呼吸は、横隔膜というお腹と胸の間にある筋肉を主体的に使う呼吸法です。息を吸うときには横隔膜が下がり、お腹が膨らみ、息を吐くときには横隔膜が上がり、お腹がへこむのが特徴です。胸部の動きは比較的少なく、深い呼吸を効率的に行うことができます。

腹式呼吸のメカニズム:

腹式呼吸では、息を吸う際に横隔膜が収縮し、下方に移動します。これにより、胸腔が広がり、肺が大きく膨らむため、より多くの空気を肺に取り込むことができます。同時に、腹腔内の臓器が下方に押されるため、お腹が膨らんで見えます。息を吐く際には、横隔膜が弛緩し、上方に移動することで胸腔が狭まり、肺から空気が排出されます。

腹式呼吸が自律神経に与える影響:

腹式呼吸は、自律神経、特に副交感神経を強力に活性化する効果があることが知られています。

迷走神経の刺激: 腹式呼吸による横隔膜の深い動きは、副交感神経の主要な神経である迷走神経を直接的に刺激します。迷走神経は、心拍数、血圧、消化活動など、多くの自律神経系の機能をコントロールしており、その活性化は心身のリラックス状態を深く促します。

心拍数の低下: 腹式呼吸を行うと、迷走神経の働きにより心拍数がゆっくりと低下します。これは、体がリラックスしている状態を示す重要な指標です。

血圧の安定: 副交感神経の活性化は、血管を拡張させ、血圧を下げる効果があります。

呼吸数の減少: 腹式呼吸は、深い呼吸をゆっくりと行うため、自然と呼吸数が減少します。これもリラックス効果を高める要因となります。

腹式呼吸とセロトニン分泌:

腹式呼吸は、セロトニン分泌にも複数の経路を通じて良い影響を与えると考えられています。

迷走神経を介した腸への影響: 腹式呼吸による迷走神経の刺激は、腸の蠕動運動を促進し、腸内環境を整える可能性があります。腸はセロトニンの大部分を生成する場所であるため、腸の健康状態の改善は、セロトニンの分泌促進に繋がると考えられます。

ストレス軽減による影響: 腹式呼吸によるリラックス効果は、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を抑制します。慢性的なストレスはセロトニンの合成や働きを阻害するため、腹式呼吸によるストレス軽減は、セロトニンの正常な分泌をサポートします。

睡眠の質の向上: 腹式呼吸は、リラックス効果によって睡眠の質を高める効果が期待できます。セロトニンは、睡眠ホルモンであるメラトニンの前駆体であるため、質の高い睡眠は、セロトニンの適切な分泌と、その後のメラトニンの生成に不可欠です。

腹式呼吸とうつ改善:

腹式呼吸は、うつ症状の改善に対しても様々な面から効果を発揮する可能性があります。

自律神経のバランス調整: うつ状態では自律神経のバランスが乱れていることが多いため、腹式呼吸による副交感神経の活性化は、精神的な安定を取り戻す上で重要です。

セロトニンレベルの向上: 腹式呼吸によるセロトニン分泌の促進は、抑うつ気分の改善に直接的に貢献する可能性があります。

ストレス軽減: ストレスはうつ病の大きな要因の一つであるため、腹式呼吸によるストレス軽減は、うつ症状の緩和に繋がります。

睡眠の質の向上: 睡眠不足はうつ症状を悪化させるため、腹式呼吸による睡眠の質の向上は、うつ症状の改善に役立ちます。

マインドフルネス効果: 腹式呼吸に意識を集中することで、現在に意識を向けるマインドフルネスの状態を促し、ネガティブな思考や感情にとらわれることを防ぐ効果が期待できます。

自己効力感の向上: 自分で呼吸をコントロールできるという感覚は、無力感を感じやすい うつ病患者にとって、自己効力感を高めるきっかけになる可能性があります。

複数の研究において、腹式呼吸を含む呼吸法が、軽度から中程度のうつ症状を持つ人々の気分改善や不安軽減に有効であることが示唆されています。ただし、腹式呼吸はあくまで補助的な手段であり、うつ病の治療は専門医の指導のもとで行うことが重要です。

深呼吸と腹式呼吸の違いまとめ

項目深呼吸腹式呼吸
主な使用筋肉胸部の筋肉(肋間筋など)、場合によって横隔膜横隔膜
体の動き息を吸うと胸が膨らみやすい息を吸うとお腹が膨らむ
呼吸の深さ方法によるより深く、効率的な呼吸が可能
自律神経への影響方法による(副交感神経または交感神経を刺激)副交感神経を強く活性化
セロトニン分泌への影響間接的な影響(リラックス効果など)迷走神経刺激などを介して間接的・直接的な影響
うつ改善への可能性気分転換、リラックス効果自律神経調整、セロトニン分泌促進、ストレス軽減など

実践方法

効果的な深呼吸の行い方:

  1. 楽な姿勢で座るか、横になります。
  2. ゆっくりと鼻から息を吸い込み、胸やお腹が膨らむのを感じます。
  3. 数秒間呼吸を止めます。
  4. ゆっくりと口から息を吐き出し、体の中の空気をすべて出し切るように意識します。
  5. これを数回繰り返します。

効果的な腹式呼吸の行い方:

  1. 楽な姿勢で座るか、仰向けに寝ます。膝を立てるとよりリラックスできます。
  2. 片手を胸に、もう片手をへそより少し下に置きます。
  3. ゆっくりと鼻から息を吸い込みます。この時、お腹に置いた手が持ち上がるのを感じますが、胸に置いた手はほとんど動かないようにします。
  4. 数秒間呼吸を止めます。
  5. ゆっくりと口から息を吐き出します。この時、お腹に置いた手が下がるのを感じます。
  6. これを数回繰り返します。

日常生活の中で、意識的に深呼吸や腹式呼吸を取り入れることで、心身の状態をより良い方向へ導くことができます。ストレスを感じた時、寝る前、起床時など、様々なタイミングで試してみましょう。

まとめ

深呼吸と腹式呼吸は、どちらも意識的に行う深い呼吸法ですが、主に使う筋肉や自律神経への影響には違いがあります。腹式呼吸は、横隔膜を主体的に使うことで、より深く効率的な呼吸を促し、副交感神経を強く活性化する効果があります。これにより、セロトニン分泌の促進やストレス軽減、睡眠の質の向上など、様々な効果が期待でき、うつ症状の改善にも貢献する可能性があります。

しかし、うつ病は複雑な病気であり、呼吸法だけで完全に治癒するものではありません。もし、うつ症状に悩んでいる場合は、自己判断せずに専門医に相談し、適切な治療を受けることが最も重要です。腹式呼吸は、あくまで治療をサポートする補助的な手段として活用していくことが望ましいでしょう。日常生活に呼吸法を取り入れ、心身の健康維持に役立てていきましょう。